1. 雑音の無いチャネルへの絶え間なき探求こそが、痛ましき病的なドグマである。

2. Dispute the operating templates of creative practice by fighting genres and expectations!

3. Get away from the established action scripts and join the avant-garde of the unknown. Become a nomad of noise artifacts!

4. グリッチを革新の外骨格とし、崩壊、破裂、破損にカタルシスを見いだせ。

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Klik Magazine のためのインタビュー

>>グリッチ・アートとは?

グリッチとは、技術的な仕組みの中のたくさんの処理(の一部)に発生する偶発的破損のことです。それは驚くべきものであり、かつギョッとさせる頓挫であり、技術をその通常の形式や通説から逸脱させるものです。その瞬間わたしはびっくりし、呆然とし、身がまえる、自問する、これはどうなっているの。おそらくこれは…グリッチ?だがその名を口にしたとたん、その「グリッチ」という瞬間は消え失せている…
グリッチは固定的な形式や永続的な状況を持たない、一時的で、予測不可能な、操作における異常な状態なのです。それをグリッチと呼ぶたびにグリッチへの理解は変容しますし、同時に(以前の)グリッチは均衡をなしてゆくのです。はじめの体験は新しい状況領域の中へ消え入り、視覚的聴覚的な効果は新しくなり、可能性は顕在化する。

わたしは自分の「グリッチ・アート」の中で、グリッチと芸術が交差するポイントを表現しています。
わたしにとってグリッチ・アートとは領域拡大に関する試みであり新しい様式の創造なのです。事故的な前衛芸術のごとく、前時代的な隠蔽された政治を破壊しながら、因習、規範、固定観念にカタルシスをもたらす。それらは、わたしが技術を学びより技術と身近になる手順を作り出すのです。
しかし実際には、グリッチ・アートとは破壊を通じた創造というパラダイムに依っている一瞬の芸術なのだ、というように言えるわけではありません。作品の多くはその瞬間をすでに終えていて、「現実に」グリッチの過程を現前させているわけではないからです。
長い間わたしは「グリッチみたいなもの」が「グリッチ・アート」と呼べるのか、呼んでよいのか、という疑問に悩まされてきました。その疑問への答え(または、グリッチという言葉をメタファーとして使ってみたらどうかというアイデア)は、グリッチ・アートの働きは相異なる仕組みの中にも、つまり創造の仕組みの中にも受容の仕組みの中にも、存在する、という事実の中に見いだせると、今日の時点ではそう思っています。創造の仕組みの中で役者がなんのヘマも起こさなかった(そして破壊を通じた創造としての働きを体験しなかった)としても、受け手の役者や観客たちは破損するかもしれなかった箇所を特定できている。彼らにとって、それらの作品は領域拡張しつづけ、気づきを増やしてゆく、それがグリッチ・アートであるということです。
他のアーティストたちがフォトショップの実験やノイズフィルターによって「グリッチ・アート」を作ろうとすることを理解はします。デザインとか完成品とかを目的としているからそうなるのでしょう。ただ個人的には、いちいちデータを破損させたりハードウェアを壊したりというように、手続きによってグリッチを作りたい。そうすることがテクノロジーに関する何かを教えてくれるように思うのです。

>>以前からあなたはビデオ作品を中心に作品を制作されていますね。それらの作品で通常使用されている技術のことを教えてください。それらのいくつかはリアルタイム(VJ)ですよね。ハードウェアは何を?グリッチ用にハードウェアを自作したことはありますか?

ビデオ作品の他にも、たくさんのことをやっていますよ。自分で気に入っているのは 404void.iq という破壊されたウェブをインターネット上で研究するというサイトです。
[でも]... わたしはかなり頻繁に異なるメディアを行き来していますね(現在のコンピュータ、1980年代の電化製品、カメラ、コーデック、音、ROM、画像フォーマット)。わたしの作品は、たとえばハードとソフトとか、現実対仮想現実とか、アナログ対デジタルとか、そういった対立に焦点を当てているのではありません。そうではなく、厳格な法(つまり批評的メディア美学のこと)によってコントロールされている全ての技術に向けられた態度なのです。わたしはその法のもとで何が起こっているのかを検分し、理不尽なものがないか調査をしているのです。

わたしは以前サーキットベンディングのワークショップを受けたこともありますし、自作のビデオブラックボックスを作ったこともあります、でもわたしは学者や教師というよりは実験者ですね。わたしはプログラムを書けませんし、試して失敗する過程から学ぶだけです。
グリッチの研究とは、理論と実践、意味と無意味、その両者を包括する領域や分野にわたる、非常に困難な研究なのだと思います。無意味なアプローチを排除したら、グリッチの研究はありえません ー それはつまり、やるべきでないことなど何ひとつないということです。

>>次に何をするんでしょう?すぐにでも手にかけて主機能を解除したいような新しい技術はありますか。

私は、セルロイドフィルムの粒子から、ブラウン管の磁気的な歪みと走査線へと移行してきました。画面の焼き付きを面白いと思ったり、死んだピクセルを指で押したりしたし、今や割れたLCDの画面を使ったパフォーマンスアートを見たりする。計画は立てません。ただ技術の渦に乗ってゆくだけです。でもそうですね、次はたぶんフロッピーかしら。

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